それはどんなことがあってもめげずに、
忍耐強く、
執念深く、
みだりに悲観せず、
楽観もせず、
生き通して行く精神ーー
それが散文精神だと思ひます。
広津和郎「散文精神について」
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2001年、私は、広津和郎さんの仕事に強い感銘を受けていました。
特に「松川事件」に関するものが中心だったけれど
その時期の私にとって、
広津さんの書かれたものや
彼の仕事、その生き様を通して学んだものは
重要な要素となりました。
ちょうどそのとき
9.11事件が起きました。
広津さんの仕事に触れていたことが
9.11とその後の世界を見つめる自分に大きな影響を与えていたことを
思い出しました。
その後の怒濤のような日々の中で
すっかり忘れていたけれど・・
当時の自分が
一言一言噛み締めるように日記に書き留めていた
「散文精神」の一説を
あらためてここに書いておきたくなりました。
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結局、一口に云へば、澤山の藝術の種類の中で、散文藝術は、
直ぐ人生の隣りにゐるものである。右隣りには、詩、美術、音楽といふやうに、
いろいろの藝術が並んでゐるが、左隣りは直ぐ人生である。
--そして人生の直ぐ隣りと云ふ事が、認識不足の美學者などに云はせると、
それ故散文藝術は藝術として最も不純なものであるやうに解釋するが、
併し人生と直ぐ隣り合せだといふところに、散文藝術の一番純粹の特色があるのであつで、それは不純でも何でもない、さういふ種類のものであり、それ以外のものでないと云ふ純粹さを持つてゐるものなのである。
音楽が一番純梓な藝術だといふ説などは、随分世に流布されてゐるが、
これも藝術にいろいろの種類があり、その種類にそれぞれその性質があるといふ事を考へた事のない、認識不足の美學者のたはごとである。
併しかうしたたはごとは、うつかりすると散文藝術家の中からも聞くことがある。
--そこで散文藝術といふものが、他に類のない、人生と隣り合せに位置を占めてゐる、
非常に愉快な、純粹な藝術であるといふ事を、一寸一言したくなつたわけである。
「散文藝術の位置」より抜粋
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